負けたので風呂を沸かす

帰ってきたとき弟は居間の真ん中でラーメンをすすっていた。

私は外を走る。運動不足にならないためだ。今晩もいつもの道をいつものように走った。そして帰ってきた。呼吸を落ち着けながら手と顔を洗って居間に戻ると弟は一言「風呂沸いとん?」私は「知らん」とだけ答えた。「私は知らんで」母は勝手に言う。

弟はずるずるとラーメンを口に運ぶ。「もう風呂が欲しいやろ」あいまに言った。確かに寒い。いまだにシャワーだけというのも妙な話だ。湯をはってもいいとは思う。弟は続けて「昨日おれ沸かしたで!」と言った。

私は疲れていた。グラスに烏龍茶を乱暴に注ぐ。それを一息に飲み干したところで「だから?」と適当な返事をした。「そこは沸かしたろ!やろ」いかにも関西人であると言わんばかりの調子で間をつめて返された。明るい声に軽い調子だ。

私は無視して風呂に入った。

我が家の風呂は古い型のものでガチガチと取っ手のようなものを回して点火する。慣れればどうということはなくて目をつむってでもできる。ガチガチガチ。弟の言葉を思い出した。昨日は弟が風呂を沸かした。その発言から「風呂を沸かしてくれ」という感情をを読み取れなかった。疲れていたからか。火が点いた。

シャワー側へと取っ手をひねる。水がゆっくりとお湯になる。腹から足。足から頭。全身にかける。温かい。はじめはシャワーだけのつもりだったが不思議と「ついでに沸かしてやろう」という気になった。なんだろう。「シャワーを浴びたくせに風呂を沸かさないなんて……」とそんなことを言われたくないからか。感謝されたいからか。分からない。ただ「ついで」なら許せる気になったのだ。

きっと負けを認めたのだ。

どうあれ沸かす。それは「沸かしてほしい」それに気づけなかった自分の負けを認める行動なのだ。気づかされたのは負けなのだ。素直に沸かしてあげるのは「しゃく」だから「ついで」だと強調することで取り繕っている。負けを認めてはいるがそうは見せたくない。自分の気持ちに徐々に整理がついていく。

嫌な気持ちにさせずに気づかせる。動かせる。そういう言葉を選べる。意識的か無意識かは分からない。どちらにせよ可能なのだ。他人を動かせる。動きたくなるように働きかけられる。あこがれる。