私と彼女との距離

「ひろし兄ちゃんって初体験いつなん?」背中から、私の首に腕をまわしながら、彼女は言った。私は動揺した。なぜなら、これが私の妄想ではなく、実際に、現実に起こっていることだからだ。

彼女は妹の友人で、もうずっと前から我が家を出入りしている。私を呼ぶときには、妹のそれを真似して、兄ちゃんをつけて呼ぶ。なぜか、最近はやたらベタベタと私にまとわりついては、「ひろし兄ちゃんとうちは、ニコイチやから」などと、ふざけて言う。ニコイチというのは、二人で一人といった意味の言葉だろう。妹もよく使っている。

その彼女がした質問は、私を動揺させた。私は動揺を見せないように意識した。体が固くなった。とっさに「どうして、そんなことを答えなきゃいけないんだよ」と答えた。

彼女は、私の背中には飽きたようで、立ち上がった。
「もしかして、ひろし兄ちゃんって……ないん?」

ひきこもりで、ネット中毒の私だが、昔は付き合っていた子がいた。私を知る人は疑うかもしれないが、これも妄想じゃない。それもあってか、彼女の質問は、私に経験のあることが前提のようだった。ただ、おそらく、それを前提とした最も大きな理由は、私をからかうためだろう。

「想像にまかせるよ」と笑いながら言った。言った後で「しまったな」と思った。こんな気持ち悪い(彼女が言うところのオタク臭い)表現を使わなくても、なにかもっと良い返しがあったように思えた。

私には女性経験などない。彼女は居た。二度も居た。しかし、何もない。あんまり、そういう気がないのかもしれない。いや、それは違うか。私にだって性欲がないわけではない。それでもやらなかったのは、別に相手に触れたり、触れられたりが嫌なわけではないのだけど、わざわざ、セックスをする必要があるのかな、とそんな気持ちになったからだろう*1。ひきこもりが、物事の選択を迫られた際の心理がよくわかる例だと思う。

以前は、「外見はそこそこ可愛いが、どこか変なところがある」そんな印象だった。最近は、変なところをうまく制御できるようになってきているし、甘えるような口調はもう慣れたものだ。距離を感じる。妹は彼女についての知る必要がないことをよく話す。「最近、彼女は彼氏と別れた」だとか、「彼女は彼氏とやりまくってる。残念だね」だとか。そこから考えれば、実際問題、私と彼女との距離は、童貞と非処女以上、ひまつぶしに童貞かを聞ける未満なわけだ。

「で、ないん?」彼女ははっきり答えろと言わんばかりに、私に迫った。私は「ああ、ないよ」とめんどくさそうに答えた。どこか打算的な自分に嫌悪感を覚えた。

「22で?」彼女は駄目を押した。「ああ、そうだよ」と笑いながら返す。

「じゃあ、今度からは『童貞のひろし兄ちゃん』って呼ぶね」と笑いながら、彼女は言った。「おいおい、それはさすがにやめてくれよ。恥ずかしい」私はまた笑いながら返す。

「あんまり、うちのお兄ちゃんいじめんといてー」妹はいつもの調子で入ってくる。化粧が終わったらしい。出かけるようだ。彼女も妹のあとについていく。

「じゃあ、またねーひろし兄ちゃん」彼女は、そう言って出ていった。時計は午後九時三十分をまわっていた。

*1:しばしば妹が、(私と彼女の居る)私の部屋に入ってきた、というのもあるかもしれない