ゲーム感覚の操作がなぜいけないのか

十四歳の子どもが自動車を運転して人をひいた事件があった。

新聞には、「ゲームセンターではレバーをガチャガチャすれば動くので、本当の車も動くと思った」という発言と、無灯火・足の位置・蛇行運転をしていたという事実とが掲載されていた。「ゲーム感覚レバー操作」という見出しから「ゲームでできたからといって現実でもできると思うな!」というのが新聞の意見なのだと私は思った。

「ゲーム感覚の操作がなぜいけないのか」私にはそれが分からない。

もし自動車が 100 を超えるボタンを持っていたら*1、もしそれらを正確に操作するよう私に要求するなら、私はそれに乗らない。シート・ミラー・ライト・ブレーキ・シフトレバー・アクセル・ハンドル……。最低限の部品で直感的に操作できるように自動車はできている。はっきり言って操作だけならゲームと変わらない。どちらも慣れれば大差ない。むしろ自動車の運転の方がゲームより簡単なくらいだ*2

理想を言えば自動車の運転はゲームよりずっと簡単であるべきだ。ゲームでの失敗はせいぜい時間の損失に過ぎないが、自動車の運転での失敗は生命の危険につながる。より簡単で当然だ。ゲーム感覚で操作できない自動車はおかしいと考えるべきだ。

では自動車を運転していた子どもは悪くないか。そんなことはない。最低である。ゲーム感覚で操作できるように作られていなかった自動車に彼・彼女の問題をすべて押し付けるつもりはない。彼・彼女の問題は「自動車の運転には責任が伴うのを理解していないこと」だ。

自動車に乗れば歩くより速い。遠くに短時間でいける。運転それ自体を気持ちいいと感じるかもしれない。しかし代償もある。その一つが事故だ。人や物にぶつければ自動車はもちろん相手も傷つく。場合によっては相手が死ぬこともある。相手が死ねばその人生を何らかの形で背負うことになる。自動車の運転には操作だけでなく「責任」を問われるのだ。その自覚がない人間には自動車の運転をさせるべきでない。

子どもには責任というものが理解できない。いや責任を理解できないからこそ子どもなのだ*3。子どもには自動車の運転をさせるべきではないと私は思う。

新聞で否定すべきは、ゲーム感覚の操作ではなく、ゲーム感覚の責任感だ。

変に操作が難しいような書き方をすれば、操作さえできればいいと錯覚しかねない。操作よりも責任が問われることこそを書くべきだ。操作ができるからといって自動車の運転などすべきではない。責任の自覚とそれを取る能力との両方を備えているかが大切なのではないか。

私には「ゲーム感覚の操作がなぜいけないのか」が分からない。

*1:本題とはおよそ関係ないが、日本で広く普及しているキーボードには109 以上のキーがある

*2:ここでは慣れるのにかかる時間程度に考えてほしい。レースドライバーなどの職業を馬鹿にするつもりはない。運転の奥は深いと思う。しかしゲームもスコアアタックなどの領域に踏み込めばそれと同じくらいに奥は深いと思う。どちらも私が一朝一夕で語れるものではないのは確かだ。

*3:年齢は問題ではない